文:福山功起

2015年3月、川口市の居酒屋。「“鋳物の町”川口を舞台に映画を撮らないか」というSKIPシティ国際Dシネマ映画祭のディレクターの一言で、『鉄の子』の企画はスタートした。「鋳物=鉄」。鉄は熱せられ、叩き上げられて完成する。その工程は、取り巻く状況で熱くなり、そんな経験一つひとつに叩き上げられて大人になっていく、子どもの成長とすぐに結びついた。同時にそれを自分の子どもの頃の実体験をベースに描いてみようと決めた。

子どもの成長を描く上で必要不可欠なのは母親の存在。このキャスティングは重要だった。しかし、前述のように今回の映画は、実体験である。そしてモデルはすべて今も実在している。なかなか難しいキャスティングだ。製作プロダクションであるアルタミラピクチャーズが挙げてくれた何人かの候補者のなかに、以前から好きだった『お引越し』(93)で子役デビューした田畑智子がいた。芯のある印象はこの作品の母親役にぴったりだった。田畑さんが決まった段階から、彼女のキャラクターを活かしながら脚本をブラッシュアップし、同時にキャスティングを行っていった。

叩き上げられて“鉄”となる子どもたちは、オーディションで決めた。おとなしい陸太郎と、おませな真理子。このイメージに合う、“子どもらしい子ども”に演じてほしいと思っていた。オーディションでは、たくさんの子どもたちに会い、陸太郎に佐藤大志、真理子には舞優を選んだ。決め手は、芝居の上手さより、自然体であったこと。2人は、何も足さず、何も引かなくとも絵になり、いい“鉄”になる予感がした。誤算は、陸太郎が驚くほど人見知りだったこと。さらに緊張しいでもあって、難しいシーンがあるとそれが終わるまで笑顔ひとつ見せない。母親役の田畑さんも、この作品のテイストを考え、いつもより遠くから見守るスタンスを取っていたそうなのでなおさらだったのかもしれない。その分、陸太郎と真理子の仲は良かった。ボール投げなどをして遊んでいたので、仲間に入れてもらおうと声を掛けたら、無視された(笑)。イタい思い出だ。

陸太郎の新しい父親となる紺は、元役者のダメな男。救いようのないお父さんとして描かれる。しかし僕は、この物語に誰も悪者はいないと思っている。父親は父親で自分の人生を真剣に生き、そして母親も陸太郎も真理子も、家族みんなが自分の人生を真剣に生きている。選んだ横道も自分の道なのだ。だからこそ、いろいろドラマがある。紺は倫理的には悪であっても、人として悪いやつにはしたくなかった。非難されてもおかしくないのに、なぜか憎めない笑顔を持っている。裵ジョンミョンさんは、そんな父親役にピッタリだった。普段は破天荒な役の多い裵さんは、普通のお父さん役をとても楽しんでくれた。しかし同時に悩んでもいたようだ。休憩中、役について裵さんと話ながら、僕は、彼が悩んでいることを密かに喜んでいた。

重要な役割を担う飯塚役には、当初“いかにも職人”という人物を想定していた。しかし脚本を書き進めるうちに、ふと逆に柔らかい雰囲気の方がいいのではないかと思い始めた。そこで親しみやすいイメージがあり、肉体労働者的雰囲気もあるスギちゃんにお願いした。川口はもともと職人の町。人情味のある職人さんのイメージが、考えを変えさせたのだ。隣の子どもも分け隔てなく叱りつける人柄というところも、スギちゃんのイメージに嵌まった。

川口市の新郷東小学校の子どもたちが、陸太郎と真理子の同級生役でエキストラとして参加してくれた。時代なのか、それとも新郷東小学校の子どもたちが特別なのか、皆とてもお芝居が上手だった。演技の経験などないはずなのに、役を理解して演じてくれたことに驚いた。川口市は小学校から映像学習を取り入れている。そんな" 映像の町" であることを実感した。
川口の鉄工所で行った撮影では" 職人" の動きに驚かされた。職人さんの動き一つ、例えばシャベルで砂を入れるという誰にでもできそうなことが、スタッフがやると不格好になってしまうのだ。何気ない動きの一つひとつに長年の経験の積み重ねを感じた瞬間だった。同時に、「絵になる仕事」というのはこういうものかという発見でもあった。演じる方もそのあたりは苦労したのではないだろうか。
8日間にわたって行われた撮影はとてもハードだった。特に子どもたちは疲れきっていたようだ。作品中、何度か陸太郎と舞優の寝るシーンがあるが、二人が本番中に本当に寝てしまった事があった。そのシーンはそのまま撮影した。寝息は本物である。
この作品では、"人となり" からはみ出さない演出というのを心がけた。俳優さんの身長、体重、声、体の大きさや、その人の持っている雰囲気からはみ出さない芝居をしてもらいたかった。だから監督として「こうしたい、ああしたい」というよりも、「この人ならこう動くはずだ」を大事にした。

『鉄の子』というのは、到底「鉄」ではない子どもの話だ。作品の中で「鉄の子」は「鉄」ではなく、熱せられ、叩き上げられて鉄になっていく鉄の原石なのだ。この物語は本当に何気ない日常かもしれない。大きなドラマがあったり、スケールが大きかったりする、そういった作品ではない。しかし人はそんな何気ない日常で育っていく。家族の細かな機微が観客みなさんの心に突き刺さる、そんな作品を目指した。陸太郎の目、お父さんの笑顔、そういったものにもいろんな意味を込めている。何気ないシーンに込められたこだわりをぜひ見てほしい。
短い撮影期間ということもあり、脚本もかなり削らざるを得ない部分もあったが、それでも限られた中で作るのも「映画」というものだ。子どもの日常の物語なので、場面一つひとつに、見ている方に当てはまるところが多々あるかもしれない。見ていただいた観客のみなさんが行間を自分と重ね合わせて読んでしまうと思う。一つの家族のカタチを通じて、普遍だからこそ、見ている側の受け取り方がいくつもある作品になったのではないだろうか。見る人一人ひとりの『鉄の子』を感じてもらえればと思う。